令和6年能登半島地震。この震災は、日本を代表する漆器の1つである、輪島塗の産地にも深い爪痕を残しました。数百年にわたって受け継がれてきた技や道具、そして職人たちの工房が一瞬にして崩れ落ち、産地の象徴である漆の香りが途絶えようとした瞬間でした。それでも、職人たちは諦めませんでした。「もう一度、漆を塗ろう」。その静かな決意が、瓦礫の中から再び輪島を動かし始めたのです。今回は、輪島漆器商工業協同組合の理事・中室さん、事務局長の隅さんに、被災の現実と復興への道、そして未来の輪島塗について伺いました。-まず、輪島塗の組合が担っている役割を教えてください。隈さん:組合には現在およそ100の事業所が加盟しています。私たちの組合では漆の共同購入や、地の粉という輪島塗の基礎となる原材料を組合が持っている工場で製造しています。この地の粉は輪島塗に欠かせない素材で、土を掘り出すところから粉に仕上げるまで、すべて組合が担っています。-震災直後はどんな状況でしたか?隈さん:地震直後、町の中心部では大規模な火災が発生しました。朝市周辺が焼け、その火災の中で私どもの組合員17の事業所が焼失してしまいました。そのほか半壊を合わせると60を超える工房が被害を受け、ほかにも一部損壊などを含めるとほぼすべての組合員が何らかの形で被災しています。中室さん:うちは社屋が半壊、倉庫が2棟とも全壊してしまいましたが、幸いにして、社員の中のご親族に不幸とかなかったものですから、 割と早く動き出していけました。-被災後、どのように復旧を進めていったのですか?隈さん:最初は全体の状況がまったく把握できませんでした。組合員の安否や被害状況を調べ始めたのは3ヵ月ほど経ってからです。多くの人が避難所や市外での一時避難生活をしていましたから。調べていくと、輪島塗の生産ができる状態ではなくなった事業所がかなりあったので、行政に対して再開するための補助や助成の要望をしました。その結果、仮設工房の建設や道具・材料の購入支援の補助制度が始まったんです。中室さん:2024年4月にまず、4棟が建設され、2025年3月までに計85棟の仮設工房が建ちました。元の使い勝手の良い工房ではないながら、 スペースと道具や材料が揃ったので震災前に受けていた注文から再開させていきました。数ヵ月して職人が手を動かしている姿を見ると、日々うつむきがちな毎日の中でも、好きな仕事に向き合える時って、みんな少し生き生きしだすんですよね。日常を取り戻せた気がして。2025年10月時点で、全体の生産体制としては9割近くが何らかの形で動いてはいますが、全体の稼働率としては半分ちょっと超えたぐらいです。 いろいろまだ整わない部分があったりしますので。隈さん:まだ輪島に戻れていない職人もいて、金沢などでみなし仮設住宅に住みながら仕事をしている方もいます。―震災からの復旧と同時に、後継者の問題にも取り組まれていると伺いました。隈さん:そうですね。震災が起きる前から、技術者の高齢化が大きな課題でした。若い職人がなかなか育たない状況が続いていて、そのうえでこの大きな災害があったので、「このままでは本当に担い手がいなくなる」と感じました。そこで県や市、国にも相談をして、後継者を育てられる仕組みや施設を整えたいと伝えました。中室さん:漆芸美術館、漆芸研修所、そして新たに立ち上げる養成施設。それらが隣接する場所に集まることになりました。既存の施設も有効に活かしながら、ものづくりの背景や現場を訪れる人たちに伝えられるような仕組みを作っていきたいですね。-育成の形としてはどんな人たちを対象に考えているのでしょうか?中室さん:基本的には全国、そして海外からも受け入れたいと考えています。輪島は過疎地ですし、地元の若者だけに頼るのは難しい。でも、全国にはものづくりを志す若者がたくさんいます。その中で「工芸の最高を目指したい」という人は必ずいる。輪島にはその環境があると信じています。昔は世襲が多かったですが、今はほとんどありません。小規模の工房では弟子を雇う余裕がなく、弟子を取ると1.5倍の仕事と出費が必要になります。だからこそ、養成施設で“ひよこ”の状態まで育てて、あとは工房が受け入れやすいようにする。「卵から育てる」のではなく、「ひよこを預かる」イメージですね。これまで後継者育成の課題を延ばし延ばしにしてきましたが、震災をきっかけに、ようやく一歩を踏み出せたと思います。-今後、輪島塗をどのように発展させていきたいと考えていますか。隈さん:これまで海外の市場ではなかなか出にくかったんです。輪島塗は木を素材にしていて、主に食器を中心に作ってきました。しかしながら、今後は海外の生活習慣、需要にあった素材での提供も求められてきています。以前はそこまで踏み込めなかったんですが、インバウンドのお客さんが増えて、「外国の方が買って帰って使えるもの」を意識するようになりました。中室さん:海外は生活文化が違います。食洗機にかけるのが普通だったり、金属のカトラリーを使うことが多かったりする。輪島塗はそうした環境では傷がつきやすい。だから、今ある漆器をそのまま販売するのが難しいシーンもあります。従来の技法や定めも守りつつ、海外をはじめとする現在の市場が求める「ものづくり」にも目を向ける必要があると思います。輪島塗はこれまでも、時代の需要に応えながら、伝統の誇りと柔軟性を組み合わせて発展してきたと思います。一方で、組合には「輪島塗は木製であること」というルールがあります。僕は、そこを単に変えればいいとは思っていません。輪島塗の本質は“良いものを作る”ということ。だから、素材を変える場合でも、輪島の誰に見せても恥ずかしくないものを作りたい。世界に出しても「さすが輪島」と言われるものしか作らない。それが、職人としての誇りです。漆を塗る前の素地づくりがあってこそ、蒔絵(まきえ)や加飾の美しさが引き立つ。下地の完成度が高くないと、いずれ装飾の技術も衰えてしまいます。だから、どんなに新しい挑戦をしても輪島の基本技術である“木地の高み”だけは守り続けたいと思っています。中室さん:技術の架け橋になるのは人です。どれだけ資料やデータを残しても、実際に“手で覚えた人”がいなければ技はつながらない。だからこそ、これからの世代に託していかなければいけません。-輪島塗という産業が地域の中で果たしている役割や存在意義をどう感じていますか。隈さん:朝市や千枚田と並んで、「輪島といえばこれ」と言われる存在です。そうした意味で、輪島塗はこの地域の誇りであり、なくてはならない産業だと思っています。中室さん:業界だけじゃなくて輪島の人も少なからず、 この地に輪島塗があるということを誇りに感じてくれている人たちがいる。全国から支援をいただいて、そのありがたさも痛感しました。輪島塗が元気であることが、千枚田や漁業、朝市の復興と同じように、失われたものを取り戻している感覚があります。そして誇りを感じる部分でもあるので、それが地域の人に勇気を与えていると思います。隅さん:輪島塗は地元の主要産業のひとつです。だからこそ、私たちが仕事を続けていくことは、地元の暮らしを守ることでもあります。「輪島塗」という看板を掲げる責任を感じながら、地域に少しでも還元できているなら嬉しいですね。-最後に、皆さんに向けてのメッセージをお願いします。隈さん:震災直後から、全国からたくさんの励ましと応援を頂きました。「輪島塗を楽しみにしている」と言っていただけるのが支えです。一日も早くみなさんの元にお届けしてその期待に応えたいと思っています。中室さん:輪島塗は「修理して蘇る器」です。私たちの産地も同じ。こういった大きな被害を受けても20年、30年先には「そんなことがあったんだな」というぐらい元気な姿を見せたいです。ものづくりの変化はあっても、 震災が大きな節目で変わったっていうことが無いように、 そういった姿をこれからもお伝えできればなと思っています。